「富田メモ」 に異議あり!




 8月15日、小泉純一郎首相は例年の賑わいをはるかに超える多くの人々が集った靖国神社に参拝した。 世論は、それより前の7月20日に 『日本経済新聞』 が、 「富田メモ」 を報じて以来、参拝反対へと顕著に変化していた。
 元宮内庁長官の富田朝彦氏が書きとめた昭和天皇のお言葉とされるメモの中に、靖国神社がいわゆるA級戦犯を合祀したこと、そのなかに松岡洋右元外相と白鳥敏夫元イタリア大使が含まれていたことに関して、昭和天皇が 「私は 或る時にA級が合祀され その上 松岡 白取までもが」 「だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ」 と語ったとするくだりがあった。
 1988年4月28日付のこのメモに、日経は 「A級戦犯 靖国合祀」 「昭和天皇が不快感」 と大きな横見出しをつけ、さらに 「参拝中止 『それが私の心だ』」 の六段ブチ抜きの見出しを掲げて、一面、三面、社会面を使って報じた。
 報じられた富田メモは断片的で、そこに書かれていた昭和天皇の御発言とされたお言葉は、従来の天皇像を一変させるほどに、他者への怒りに溢れていた 聞き書きであり二次資料にすぎないのだが、同メモは世論を大きく動かした。
 日経の調査では靖国参拝反対は富田メモが報じられる前後では37%から53%へと増え、同様に 『朝日新聞』 の調査でも数字は46%から60%に跳ね上がっていた。 政治家、とりわけ国民世論の支持に大きく依存してきた小泉首相にとって、一連の世論調査に示された強い反対論を押しきっての参拝は極めて大きな決断だったはずだ。
 今回も、しかし、小泉首相は勝負に勝った。 『読売新聞』 及び 『毎日新聞』 の世論調査によると、首相参拝を支持する人は各々53%、50%、支持しないという39%、46%を上回ったのだ。
 目を真一文字に結んで決行した15日参拝の意義は大きい。 まず外交においては、液状化しつつあった日本の国家基盤を堅固ならしめる重要な一歩となることだろう。




 国内においては、小泉首相の参拝や富田メモの出現は、私たち日本人が天皇を戴く皇室の在り方や国家について、どのように考え、受けとめ、守り立てていけばよいのかを考える新たなきっかけとなった。
 公約でもあった15日の参拝に、6度目の今年になってようやく踏み切ったのは、靖国神社問題を外交の場で論ずることの不毛と無意昧さを実感するのに5年余の試行錯誤が必要だったということであろう。 今回の首相の決断は、中国の不当な内政干渉を峻拒する決意そのものであり、これからの日本外交の貴重な土台となるべきものだ。
 中曽根康弘元首相が1985年8月の参拝以降、中国の意向を受けて参拝を取りやめ屈服し続けてきた対中外交の異常 を、正常な軌跡に引き戻す働きを小泉首相はしたといえる。
 後に詳述するが、靖国神社問題は中国にとっては政治の取引材料のひとつにすぎない。 日本が日本国に殉じた人々を英霊として祭り、感謝を捧げこの国の未来の安らかならんことを祈るのは、他国の類似行為同様、当然である。 祈り方や祈る場所、支び施設は各国が各々独自に決めるもので、如何なる他国も介入すべき性質のものではない。
 にもかかわらず、富田メモ及び首相参拝に問する報道は、靖国神社問題が日中問題ではなく、まさに日本の国内問題であることを見せつけた。




 前述のように富田メモは、昭和天皇が語られた内容を、富田長官が走り書きしたものだ。 メモにすぎず、長官が昭和天皇のお言葉をどれだけ忠実に書き残したものか、確認のしようもない。 また、これまでに明らかにされてきた昭和天皇の種々の御発言と富田メモでのそれとは甚しく矛盾する事柄もある。
 矛盾は、しかし、吟味されることもなく、同メモは日経によって 「第一級史料」 と位置づけられた。 半藤一利氏、御厨貴氏の両専門家も7月23日の日経紙上で対談し、同メモに 「感動し」 、天皇の靖国神社参拝中止は 「やはり」 「A級戦犯合祀のため」 だったと納得の弁を語った。
 また、天皇が靖国神社への合祀を嫌ったのは、 「松岡、白取」 の二名に限らず、 「A級戦犯全体( の合祀ゆえ )だと思う」 との点でも一致し、日経のスクープの意義を強調した。 さらに同メモを 「戦後日本を考えるうえですごい史料になる」 ( 日経7月20日、半藤一利氏 )と全面的に賞賛した。
 日経の報道以降、一部の新聞を除くほぼ全紙とテレビ報道が、日経の見出しを踏襲する形で 「A級戦犯合祀」 に 「昭和天皇不快感」 を大前提として靖国神社問題を論じ始めた。 あたかも、富田メモが昭和天皇のお気持そのものを表現しているかのような決めつけ報道である。
 そこには、富田メモをそのまま受け入れることについての慎重さが欠けている。 これらが真に昭和天皇のお言葉であったとしても、公式の場での御発言との落差に想いを致し、プライベートな場での発言はその限りにおさめおく成熟した大人の配慮にも欠けている。
 問うべきは、日経が見出しで示したような前提で靖国神社問題を論じてよいのかという点だ。 その点を考えるためにもまず、日経の靖国神社についての姿勢から見てみよう。




 「如何なる反対があっても必ず8月15日に( 靖国神社を )参拝する」 と断言して小泉政権が誕生するや、日経は折りに触れて首相の姿勢を批判する社説を掲げてきた。 ざっと振りかえると以下のとおりである。 「小泉首相に靖国参拝の再考を求む」 ( 01年8月1日 )、 「妥協の末の靖国神社13日参拝」 ( 8月14日 )、 「なぜこの時期に靖国参拝か」 ( 03年1月15日 )、 「靖国参拝に一石を投じた判決」 ( 04年4月8日 )、 「重く受け止めたい靖国参拝違憲の判断」 ( 05年10月1日 )、 「避けられぬ靖国問題の総裁選争点化」 ( 06年8月5日 )、 「靖国神社のあり方論議を深めるべきだ」 ( 8月9日 )、 「ひとりよがりの小泉首相靖国参拝」 ( 8月16日 )。
 表現はさまざまだが、一連の社説は日経が一貫して参拝に反対を貫いてきたことを物語る。 そして半ば以上、予想されることなのだが、反対の論拠がこの5年間で変化している。
 01年8月1日に掲載した靖国参拝牽制の社説第1号では 「中国などの反対があるから、参拝を取りやめるべきだということはなく、国論が二分されている問題で首相が参拝を強行することは、いたずらに混乱を招くだけだからだ」 という主張を展開した。
 ところが小泉首相が公約を2日前倒しにしたとはいえ13日に1回目の参拝を行うと、日経は翌日の社説で 「中国や韓国がどう反応するのかもまだわからない」 と懸念を表明した。
 03年1月14日の参拝後には 「このような問題で中国や韓国など近隣諸国との外交関係に無用の波風を立てるべきではない」 「昨年( 2002年 )は終戦記念日を避けて4月の春季例大祭に参拝したが、中国や韓国の反発は変わらなかった」 「靖国参拝問題で日中、日韓の関係を損なうようなことがあってはならない」 と、ひたすら中国の意向を心配する主張を展開し始めた。
 当初、中国の反発が理由ではないとしていたのが、実際は、あくまでも中国などの反発を恐れ心配し、それを最大の理由として参拝反対を唱えているのは明らかだ。
 日経の姿勢は財界の姿勢そのものである。 となれば、日経の存在意義は、経済記事を最も得手とするジャーナリズムにあるのか。 それとも、日中間のビジネスを重視する余り小泉首相に靖国神社参拝中止を申し入れた経済同友会の北城悋太郎氏らと同様、商売促進の大目標の前では靖国神社に象徴される日本の精神文明は置き去りにせざるを得ないという立場をとる のか、思わず問うてみたくなる点だ。


(*1)
(*1):■は( 王+施 )

 道路公団改革などでは見事な論理を展開した日経だが、こと靖国神社問題に間しては、報道機関としての日経の在り方を疑わざるを得ないもうひとつの理由がある。
 今年4月13日に同社社長の杉田亮毅氏が北京を訪れ、唐家■国務委員に会いながら、その件について一行も報じなかったことだ。 右の件は 『産経新聞』 が8月4日に報じていたのだが、産経の問い合わせに対して、日経は唐国務委員との会見が 「公式のインタビューではなく、かつ発言には特段のニュース性がないと判断」 したため報じなかったとコメントした。
 日経の説明は答えになっていない。 というより、このコメントは異常である。 唐家■氏は対日政策立案の司令塔といってよい。 日中関係について、中国側の最重要人物のひとりである。 そのような人物に新聞社の社長が会う場合、社をあげて準備するのが通常のケースだ。 会見は一面トップを飾り、質疑応答は詳しく報じられるのが通例だ。 しかし、日経は文字どおり一行も報じなかった。 メディアとしてはおよそ考えられないことである。
 唐氏は田中真紀子元外相に 「靖国参拝はやめなさいと“厳命”しました」 と発言したあの人物である。 また、小泉首相の一度目の参拝が8月13日に前倒しされた背景にも氏の影が見える。
 当時、官房長官福田康夫氏は水面下で中国側との接触を続け、15日の参拝を見送るよう、小泉首相の説得を続けていた。 8月13日午前、唐家■氏が官邸の福田氏に電話をかけて、15日を避けて前倒しで今日参拝するなら中国側はそれを受け容れる旨告げたという。 福田長官は早速首相にその件を伝え、首相はその言葉を信用して直ちに当日午後の参拝を決めたといわれている。
 だが結果は周知のとおりだ。 首相の参拝を受け容れるどころか、中国側は激しく反発し、小泉首相を批判した。 小泉首相は靖国への15日の参拝という公約を曲げて中国と協調したつもりが、見事に読み誤った。 一方の中国側はとにもかくにも潰したかった15日の参拝を阻止することが出来た。
 今年8月、中国の江沢民前国家主席の 「江沢民文選」 ( 全三巻 )が発売された。 その中には、1998年8月、在外公館から全大使を集め、江沢民がこう語った旨、書かれている。
  「日本に対しては歴史問題を常に強調すべきだ。 永遠に言い続けなければならない」
 永遠に歴史問題を対日カードとして利用するのが、中国共産党の対日戦略なのだ。 目的は、日本の事実上の支配である。 「永遠に言い続ける」 とは中国がノーといえば日本は逆らわないという状態になるまで、歴史問題を持ち出すということだ。 2001年の段階で、小泉首相が2日、日程を前倒しにしたのは、中国側にとっては、小さな、しかし、手応えのある勝利だったはずだ。
 「6時をすぎても小泉は肩を落としていました。 喘されたんです」 と当時を振りかえって側近は語った。
 対日政策の構築で極めて重要な立場を占める唐氏に、杉田社長が会って一行も報じないのは、外に漏れてはならない内容が両者間で語り合われた ととられても仕方がないだろう。 そして日経が富田メモを報じたのは、唐氏らが何としても阻止したい首相の8月15日参拝の約ひと月前の7月20日だ。 偶然にしては余りにも出来すぎたタイミング ではないか。




 この点について 『文藝春秋』 9月号に掲載された 「昭和天皇 『靖国メモ』 未公開部分の核心」 で、半藤、秦郁彦の両氏は日経が政治的、意図的にスクープしたものではないとの点で意見が一致している。
 半藤氏も秦氏も、日経から事前に資料の提供を受けて対談に臨んでおり、それだけに両氏の判断には耳を傾けなければならない。
 だが疑問も残る。 半藤氏は、日経が 「記事を出す前日には、宮内庁を通じて今上天皇にも、富田元長官のメモを報じることと、靖国メモの内容をお伝えしたそうです。 宮内庁からは、わかりましたという返事があったという」 と語っている。 日経の半藤氏に対する右のような説明は、どう考えても、奇妙に思える。
 日経が、事前に宮内庁を通して今上天皇に記事の内容をお伝えし、その内容を知った天皇と宮内庁がはたしてスンナリと 「わかりました」 と御返答なさるものだろうか。
 まず第一に、富田メモはメモにすぎない。 後述する 『昭和天皇独白録』 とは成り立ちも意味合いも全く異る。 メモの内容が正確か否かの検証作業が行われた形跡もなく、したがって天皇のお言葉がその意図どおりに書き残されている保障もない。
 何よりも宮内庁長官という職務を通して知り得た事柄やお言葉を公表するとなれば、天皇をはじめ皇族方は迂閥に物も言えなくなる。
 庶民とは異り、皇族は長官をはじめ多くの人々のお世話なくしては、日々の仕事も生活も成り立たない。 複数の人々に囲まれて生きなければならない方々にとって、富田メモの公表は究極のプライバシーの侵害であり、恐怖であろう。
 にもかかわらずそのようなメモを公表するというのだ。 天皇や宮内庁が容易に承諾すると思えないのは当然だ。
 事実、宮内庁は8月10日、羽毛田信吾長官が記者会見で次のように述べて半藤氏の語った内容を事実上否定した。
 「長官という職にあるものとして言えば、こうした事柄( 富田メモ )を公表するには余程慎重でなければならない」 「富田長官も公表をお考えにならなかったと思う」 「( 公表されることになれば )陛下自身が長官にものを言いにくくなる」 ( 『朝日新聞』 8月10日 )。
 宮内庁長官は、報道から3週間もすぎて、はじめて、富田メモの公表に異議を唱えたのだ。 余りにも鈍い反応ではあるが、確かなことは“事前の説明”に対して“わかりました”と天皇及び宮内庁から承諾の返答をもらったという日経の説明は揺らいでくるということだ。
 天皇も宮内庁も、穏やかな表現ながら、メモの公表を承諾していないと言っているのだ。 この重要な点について、日経の半藤氏に対する説明はどこまで正確だったのか、疑問に思わざるを得ない。
 ちなみに日経は宮内庁長官の先のコメントを8月17日の今日に至るまで、全く報じていない。 日経はこうした点を、杉田社長と唐家■氏の会見を含めて、読者に対して説明する責任がある。




 長々と日経の基本的な“姿勢”について見てきたが、富田メモの報じ方にも疑問がある。 日経は20日の紙面で富田メモを 「靖国問題のほかに皇族や新旧の政治家の人物評を交えた、言葉と思いは最晩年の昭和天皇が意図して富田氏に託したのか、富田氏が努めて細かくメモをとったのか。 富田氏の手控えは、粉飾や主観の混入を感じさせない書きぶりで、全体が第一級の現代史史料である」 と、評価した。 そのうえで同日夕刊で、翌日付朝刊から連載を開始すると予告した。
 連載はたしかに始まった。 だが、意外にも、1000字前後の短い記事で綴る連載はわずか5回で終わってしまった。 12冊の日記と20数冊の手帳に書き込まれた 「第一級の史料」 がたった5回の連載で書き尽くされたというのか。 信じ難い想いである。
 そして8月3日から2回目の連載が始まったが、これも5回限り、日経の報道に対する批判や疑問に答えるために急ごしらえしたような内容だった。




[ 富田メモの3頁目 ]
 日経の報道への批判や疑問は、日経の報道が余りにも富田メモの一部分に限られていたために生じたものだ。 12冊の日記帳と20数冊にのぼる手帳のなかから、わずか1頁を抜粋し、しかもその頁の下半分しか見せない形で報じたのであるから、その他の部分はどうなっているのかという疑問がおきない方がむしろおかしい。
 富田氏のメモ帳はテレビ番組でも紹介されたが、ここから思いがけない展開も始まった。 画面には、公開された4枚目の頁の前の頁、つまり3枚目の頁が白い裏を見せて写し出されていた。 そして3枚目の頁に書かれていた文字が白い紙を通して透けて見えたのだ。 その画像をサッとパソコンに取り込んで、逆転させてなんと、文字を読みとった人々がいたのだ。 彼らはその文字をネットに載せた。
 コンピュータで解析した3枚目の頁には、 「Pressの会見」 と書かれていた。 日付は88年4月28日。 しかし、当日、昭和天皇の会見はない。 そうした点を含めて果たして富田メモに書かれた言葉は天皇のお言葉かという疑問を抱いた。
 こうした一連の疑問が提示されたために、日経は3枚目に書かれていた言葉を、2回目の連載の冒頭で明らかにせざるを得なかったのであろ。
 1回目も2回目も連載は非常に簡単に終わった。 未公開のまま残された大部の“第一級史料”を日経及び富田家はどのような形で世に問うていくつもりなのだろうか。




 富田氏が職務上知り得た情報を書きとめたこのメモは、間違いなく公文書だと考える。 プライバシーにもかかわるものであり、公開することには基本的に賛同出来ない。 しかし、今や、富田メモはさまざまな問題を提起している。 国家の基盤に関わる重要事について、特定の流れを形成しつつある。 そうした見方が真に正しいのか否か、富田メモの全体像を読んで判断することが重要である。 したがって、今となっては、富田メモの全面公開を求めるものだ。 が、これまでの日経の報道振りからは、同メモをどのような形で日本のために活用していくのか、全く見えてこない。
 半藤氏が 『文藝春秋』 で述べたように、日経が富田メモの公表について天皇と宮内庁の承諾を得ていたとしたら、また、第一級史料という評価が真に正しいとしたら、もっと充実した形の連載があり得るのではないか。 これまでに紹介されたのは、富田長官の天皇への想いや、天皇の富田氏へのお心配りが感じられる記述である。 人間的な魅力を物語るすばらしいエピソードである。 かといって、それが第一級の歴史史料と謳われるものではないのも明らかだ。
 富田メモの 「全般を幅広く見て、そのうえで、信頼性の高い史料だと判断した」 と 『文藷春秋』 で語った秦氏も半藤氏も、富田メモが一級の歴史史料たるゆえんについては、靖国メモの部分以外は触れていない。 日経の連載でも同様だ。
 とすれば、日経が富田メモで特筆して伝えたかったのはこの靖国メモの部分に尽きるということか。 富田メモの全容が見えていないだけに、判断は難しいのだが、そして推論ばかり重ねることは避けたいのだが、万が一、日経が富田メモを一級の史料と判断した根拠が公表済みの“A級戦犯”についてのくだりだけだとすれば、7月20日以来の“A級戦犯全て”の合祀に天皇は反対だ ったという主張の報道は、如何にも日経の主張に添ったものだ。
 言い換えれば 日経が社説で強調してきたように中国の意にも添うもの である。 そしてそのことは以下に詳述するように、紛れもない天皇の政治利用である。




 富田氏がどこまで正確に昭和天皇のお言葉を書き残したかについての疑問はこの際横に置く。 その上で富田メモをどう評価すべきかについて考えてみたい。 すでに富田メモは“A級戦犯”が合祀されたために天皇の靖国参拝がなくなった、天皇が合祀を憤っておられるのは、一人や二人の“A級戦犯”についてではなく、“全てのA級戦犯”なのだ、だから全A級戦犯の分祀を進めるべきだという形で一人歩きを始めている。
 再度強調したいのは富田メモは所詮、第二次資料だという点だ。 同じ聞き書きなら、信頼性と内容において富田メモをはるかに凌駕する 『昭和天皇独白録』 がある。 『木戸幸一日記』 もある。 そしてこれらの資料は、富田メモに基づく 「全てのA級戦犯の合 祀に天皇が不快感」 などの解釈が間違いであることを明確に示している。
 周知のように 『独白録』 は1946( 昭和21 )年3月から4月にかけて、宮内大臣松平慶民はじめ侍従次長木下道雄、宗秩寮総裁松平康昌、内記部長稲田周一、御用掛寺崎英成の5人が5回にわたって昭和天皇から直接間いてまとめたものだ。
 寺崎氏の家族によって保存されていた 『独白録』 を、解説を書いた半藤氏は 「さまざまな記録から、昭和天皇が戦後になって、ことあるごとにそのご記憶をよびさまして、歴史的事実を語られていることを知ることができる。 この記録はその頂点にある」 と評価した( 『昭和天皇独白録』 「はじめに」 )。
 『独白録』 には、明らかに天皇が思い違いをしておられるくだりもある。 半藤氏は 「お気軽なお言葉の面がなくもない。 筆記者の寺崎自身の用語法による部分もすくなしとしないようにも思われる」 と 『独白録』 の欠陥について指摘している。 だがそれでも氏は 「しかし、だからといって、その史料的評価をいささかも減ずるものではあるまい」 と高く評価した。
 『独白録』 を正しく読むことが、 「万世の為に太平をひらく」 ことを念じられた陛下のお心に 「よりよく添うことになる」 とも記している。
 『独白録』 を読めば、富田メモから導き出されている 「松岡、白鳥に限らずA級戦犯全員の合祀に天皇は反対」 という見方は到底、とれない、否、そのような見方を許さないお言葉が書かれている。 たとえば東條英機元首相についてである。
 まるで“A級戦犯”の代名詞のように位置づけられた東條元首相を昭和天皇が殊の外あたたかい目で見ていたことは周知のとおりだ。 天皇はこう仰っている。
 「元来東條と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた」
 「東條は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中ゝ良い処があった。 『マリアナ』 防備も彼が参謀総長を兼ねてから後[19年2月]、督促してやっと出来たが、時已に晩かった。 あの時、非戦闘員の玉砕には極力反対してゐたが、世間では東條が玉砕させた様に、云つてゐる」
 「彼が大東亜各地を飛んで廻った事も[18年春から夏]、彼自身の宣伝の様に云はれて評判が悪いが、これも私の許可を得てやった事である」
 また東條元首相がサイパン陥落を機に辞表を提出したときのことも天皇はこう述べられた。
 「東條は平沼に云はれて辞表を提出した。 袞龍こんりょうの袖に隠れるのはいけないと云って立派に提出したのである」




 『独白録』 を書き残した一人、木下道雄侍従次長の 『側近日誌』 には、天皇の東條に聞する次のような言葉もある。
 「彼程朕の意見を直ちに実行に移したものはない」 「要するに、彼は、近衛の聞き上手で実行しないのに反して、聞き下手で直ぐ議論をやるから人から嫌われるのであろう」
 このように信頼を寄せ、状況によっては東條を庇ったのが昭和天皇だった。 だが、追い詰められたとき、東條は天皇を煩わせることも好意にすがることもなく、潔く辞任したと賞賛なさったのだ。
[ 終戦問題討議とポツダム宣言受諾 ]
( 画像クリックで拡大 )
 東條元首相らが東京裁判で裁かれている間、昭和天皇の懊悩は尋常ではなかったという。 ポツダム宣言を受け容れる断を下し、降伏した日本国を代表して昭和天皇はマッカーサーに対して述べている。
 「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにもまた事件にも全責任をとります。 また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。 自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題でない。 構わず総ての事を進めていただきたい。 私は全責任を負います」 ( 重光葵元外相の文章から )
 マッカーサーはこれを聞いて 「興奮の余り陛下にキスしようとした位です」 と述べた程、昭和天皇の無私の姿勢にうたれている。
 その天皇が如何なる形にせよ罪に問われるのを防ぐため、“A級戦犯”の恪印を押された者たちは一方的に裁かれる法廷で天皇を守るために各々の立場で闘った。 東條元首相は当初、日本を犯罪国家として裁いたキーナン検事に、 「日本国の臣民( 自分 )が陛下のご意思に反してかれこれすることはありえぬことであります」 と答えた。 忠良なる東條にしてみれば、まさに本音であろう。 しかし、東條の証言は天皇に対する不利な証言となる。 そのことに気がついた東條は次の法廷で 「( 天皇は )私の進言、統帥部その他責任者の進言によって、しぶしぶ( 戦争に )ご同意になった」 と述べて、証言を変えたのだ。
 天皇を庇う。 A級戦犯てたちについて昭和天皇は 「裁判にかけるといっても皆国のために一生懸命やった者ばかり」 と語り、だから 「この際自分一人が犠牲になってすむものなら自分が責任をとりたいとお話しなされた」 ( 『木戸幸一日記』 第3巻 )のだ。
 そして“A級戦犯”7名をGHQは昭和23年12月23日、今上天皇のお誕生日にぶつけて処刑した。 日本への悪意と憎しみに満ちたやり様である。 昭和天皇はその日、目を真っ赤にして涙したという。
 昭和天皇は御自分に責任があると思われていた。 その責任を果たすために一身を投げうつ覚悟をもたれていた。 だが、現実には東條元首相をはじめ臣下の者たちの死によって責任は償われ、御白身は生き残った。 そのことの重い意味を、陛下は忘れてはおられなかったはずだ。
 だからこそ、東條家の孫の由布子さんが語るように、昭和天皇は靖国神社参拝をやめられてからも、毎年、お使いを派遣し、東條家への 「御心配の御伝言」 を託され続けた。


姿

 一連の歴史史料の 「頂点にある」 と半藤氏が高く評価した 『独白録』 をはじめ、その他の 『木戸幸一日記』 、 『側近日記』 などの聞き書きから浮かんでくる昭和天皇の“A級戦犯”に対するお考えは、繰り返しになるが、決して“A級戦犯が合祀されている から靖国神社は参拝しない”などというものではない。
 『独白録』 は昭和21年、昭和天皇が44歳のときの聞き書きである。 しかも、5人を対象にしてその都度テーマを決めての聞き書きだ。 聞き書きであるから書き損じた箇所や意味不明の箇所もある。 それらについて内容を再精査して書き上げられたのが 『独白録』 である。
 片や富田メモは、御高齢の陛下がさまざまに往時を振りかえりながら語られた内容である。 問題となった今回の靖国参拝のくだりは、その前年に手術を受けられ御病状進行の中での会話である。 加えて富田氏の書き方も極めて断片的だ。
 陛下といえども人間であるからには人間への好悪もあって当然だ。 だが、手術後の御体調ゆえの御発言だからか、富田メモの 「A級が合祀され その上松岡、白取までもが」 「易々と」 「だから私あれ以来参拝していない」 などの言葉から浮かんでくるイメージは、敗戦直後にマッカーサーを前に御自分の覚悟を述べられたお言葉、東條やその他の“A級戦犯”を気遣うお姿、彼らを想って涙を落とされたお姿とは余りにかけ離れている。




 果たして昭和天皇の真実の姿はどちらにあるのか。 この問いは、私たちが、国家をどのようにとらえ、天皇を戴く皇室をどのように守っていくかという決意につながっていく。 答えを探るために少々回り道をして 『独白録』 のなかの君主としての昭和天皇の在り様をもう少し見てみたい。 立憲君主という規定の枠内でとらえようとしても、とても一面的にはとらえきれない。 意外な程、多様な面をお持ちである。
 昭和天皇が日米開戦に反対だったことは周知の事実だ。 1941( 昭和16 )年9月6日の御前会議の項で昭和天皇は語っておられる。 対米開戦を予想して永野修身軍司令部総長が戦争の計画書を持参し、昭和天皇は永野の罷免を考えるが果たせない。 同案には第一に戦争の決意、第二に対米交渉の継続、第三に10月上旬頃までに交渉が打開しなければ開戦に踏み切るという三段階の戦略が書かれていた。 第一と第二の優先順位を逆転させようとして成し得なかった天皇は、御白身の決意を示す手立てを考える。 御前会議の席で昭和天皇は、明治天皇の御製を読み上げたのだ。

 四方の海 みなはらからと 思う世に
  など波風の 立ちさはぐらむ

 陸軍大臣の東條は、ここではじめて昭和天皇の真意を知り 「聖慮は平和にあらせられるぞ」 と叫んだとある。 開戦論者だった東條が、日米戦争回避の努力を始めるその第一歩である。
 戦争が始まっても、天皇の思いは基本的に変わらなかった。 東條内閣の末期から小磯國昭、鈴木貫太郎と続く各総理から、昭和天皇は国民への鼓舞激励のための詔書を要望されるが、これを断るのだ。 『独白録』 ではこのくだりで昭和天皇は次のように語っている。
 「出すとなると、速やかに手短に還れとも云へぬからどうしても、戦争を謳歌し、侵略に賛成する言葉しか使へない、そうなると皇室の伝統に反する事になるから断り続けた」




[ 対米英蘭開戦の件(御前会議決定) ]
( 画像クリックで拡大 )
 昭和天皇は1942( 昭和17 )年12月に伊勢神宮に参拝なさったが、その時は 「勝利を祈るよりもむしすみやかに平和の日が来る様にお祈りした」 と語っている。
 このとき日本はすでにミッドウェー海戦に敗れていた。 天皇の祈りは或いは、戦場に赴いた兵士たちとの思いとは、必ずしも一致しないかもしれない。 勝利への祈りを最優先はせず、平和を祈る姿勢は、しかし、それだけ、高く遠くから事象を見詰めているということであろう。
 だが、興味深いのは天皇もまた御心が揺れるのを避け得なかったということだ。 前述の御前会議の項に見られるように昭和天皇はたしかに開戦には反対だった。 しかし、12月1日の御前会議では開戦を了承した。 「反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった」 と、天皇は語っている。
 「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ」 とも語っているが、かといって、常に立憲君主として沈黙を守ったわけではない。 たとえば、レイテ沖決戦について 「一度レイテで叩いて、米がひるんだならば、妥協の余地を発見出来るのではないかと思ひ、 『レイテ』 決戦に賛成した」 、或いは 「沖縄で敗れた後は、海上戦の見込は立たぬ。 唯一縷いちるの望みは 『ビルマ』 作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して、相当打撃を与え得るのではないかと思って、梅津( 美治郎参謀総長 )に託した」 などの発言が見られる。 立憲君主としてののりにおさまりきれない、この国の窮状を何としてでも救いたい、手を貸したいとの切なる想いが伝わってこないだろうか。
 人物月旦はしないのが帝王の姿でもあるが、昭和天皇は随分はっきりした月旦評も繰り広げている。
 広田弘毅について 「玄洋社出身の関係か、どうか知らぬが、戦争をした方がいいと云ふ意見を述べ」 、 「統帥部の意見を聞いて」 つまり軍部の意見を聞いて 「内閣を作った方が良いと云ったり、全く外交官出身の彼としては、思ひもかけぬ意見を述べた」 と語る。
[ ヒトラーと松岡外相 ]
( 画像クリックで拡大 )
 また、松岡元外相に対する批判は周知のように極めて厳しく、 「ヒトラーに買収でもされたのではないかと思はれる」 とまで述べられた。 「( ドイツから )帰国した時に私に対して、初めて王侯の様な歓待を受けましたと云って嬉[喜」 んでゐた。 一体松岡のやる事は不可解の事が多いゝが彼の性格を呑み込めば了解がつく。 彼は他人の立てた計書には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持ってゐる」 とも語っている。
 日独伊三国同盟に昭和天皇は反対しておられたが、そうした反対論を尻目に三国同盟に突き進んでいく松岡らへの烈しい怒りは、富田メモの 「松岡、白取までもが」 のくだりにも通ずるものだ。




 福田和也氏はこれを君主としての怒り、高貴さゆえの憤怒と表現した。 立憲君主としてこの国を統合し、守っていくとの決意の堅固さに比例して、この国の道を誤り、危機を招く失策失政に対して、君主の怒りは凄まじくも炸裂するというのだ。
  「私」 を超えた高貴な君主の怒りを内に秘めた昭和天皇は、御自身の思いを律して、開戦を了承する。 勝利よりも平和を望みっつも、軍事作戦に言及なさる。 敗北に当たって全責任は自身にあると潔く述べられる。 これらの事実を総合して考えるとき、この昭和天皇のお姿と価値観ゆえに、日本人の精神的な統合がはかられてきたことに納得するのだ。 国家はこのようにして作られ、守られていくものではないのか。
 昭和天皇の全人格が昭和の時代の日本を表現する要素となることを、誰よりも認識していたのが他ならぬ天皇御自身であろう。 だからこそ、天皇はよき国家を創っていくために、原則に忠実であろうとなさった。 御白身の想いの発露は、国家のあるべき形のために、努めて律しようとなさった。 そうしてはじめて国家が成り立ち、立憲君主の責務も果たすことが出来ると考えられたからであろう。
 であるならば、私たちはその想いをそのまま受けとめるのがよい。 富田メモにどのように向き合うべきかという問いへの答えもここから生まれてくる。
 昭和天皇は、最後の記者会見となった1988年の会見で第二次世界大戦について問われ、 「大戦のことが一番いやな思い出です」 と述べるにとどめた。 戦争になった最大の原因は何かと重ねて問われ、 「そのことは人物の批判とかそういうものが加わりますから」 と、お答えを避けた。 公に人物批判をすることを飽くまでも避けられたのだ
 最後まで立憲君主としての矩を守ることを心掛けられた昭和天皇は、富田メモに書かれているような表現が御自分の言葉とされて外に出されることなど、決して欲してはおられなかったと思われる想像さえなさらなかったことだろう。 何よりもそれは、全生涯をかけて守り通そうとなさった君主の姿を台無しにするものであるからだ。
 この国の姿の中心には、君主としての天皇が存在し、天皇を戴く皇室が存在してきた。 神話の時代に起源を遡る皇室はフィクションでありながら、幾百世代の日本人の心を反映した“現実”でもあり、まさに数多の先人たちの心の結実なのだ。
 それを私たちが作り事だとして捨て去ることは許されない。 国家についてもまた然りである。 国家は或いは究極の作り事であるかもしれない。 だが、だとしても、未来永劫必要な作り事でもある。 それを守っていくことは、この国の連綿たる歴史を引き受けるということである。 それをしっかり次代につないでいくということでもある。
 すでに前述したように、昭和天皇のお言葉は、富田メモよりはるかに信頼性の高い形でまとめられた 『独白録』 をはじめ、複数の聞き書きによって明らかにされてきた。 それらのどれにより信頼を置き、昭和天皇と昭和の時代の日本を見詰めていくかは、まさに、日本人の知性と成熱度を問うことなのである。
 結論は明らかだ。 富田メモが自ずと示している史料価値としての限界を慎重に判断することである。 それは同メモを過大評価しないということに尽きるのである。