か?


 昭和天皇がA級戦犯の靖国合祀に不快感を持っておられたという 「富田メモ」 に、“媚中派”をはじめ分祀派は勢いを得ている。 昭和天皇が生前、最も懸念されていた 「政治利用」 が 罷り通っているわけである。 だが、待て。 あれは本当に天皇のご発言をメモしたものなのか。 ここへ来て侍従長だった徳川義寛氏の発言だったという見方が噴出している。

 「新聞でメモを見た時は、父の言っていたのと同じだなあ、と思いました。 父は、家では役所の話をあまりしませんでしたがね」
 都内の自宅で、静かにそう語るのは、昭和天皇に半世紀以上にわたって仕えた徳川義寛元侍従長( 平成8年2月死去 )の長男・義眞氏( 71 )である。
 徳川義寛元侍従長 2.26事件が起きた昭和11年に侍従となり、昭和60年10月、侍従長に昇格。 63年4月に勇退するまで昭和天皇に仕えた側近中の側近だ。
 その長男である義眞氏が、今回の 「富田メモ」 に書かれていた内容を見て、
 「父の発言に似ている」
 というのである。
 50年以上もお側に仕えた人間ならば、その意見は陛下とほとんど同じであっても当然である。 しかし、陛下と徳川氏の間で、一点だけ明確に意見を異にするものがあった。
 それは 「A級戦犯」 する見解である。
 これが、天皇のご発言を記したものだとする 「富田メモ」 の信憑性を疑わせる理由にもなるのだが、それは後で詳述する。
 ともかく、7月20日に日経新聞が報じたこの富田メモの内容は衝撃だった。
 私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから私あれ以来参拝していない、それが私の心だ
 わずか100字ほどのメモである。 断片的なものとはいえ、これが本当に昭和天皇のお言葉そのままだったなら、日経新聞が報じたように、陛下は 「A級戦犯の靖国合祀」 にご反対だったのだろう。
 しかし、これを一読して、こんなことを昭和天皇が本当に仰るだろうか、と疑問を持つ専門家は少なくない。
 その最大の違和感が、ほかならぬ 「A級戦犯」 に対するくだりなのだ。
 昭和天皇は、開戦の詔勅を発し、陸海軍の統帥権も持つ、政軍両面の最終決断を行う最高権力者であった。
 日本が戦争に敗れ、戦勝国によって当時の日本の指導者( すなわち天皇にとっては臣下たち )がA級戦犯とされていった時、昭和天皇が心を痛めておられたことはさまざまな資料で明らかにされている。
 例えば、昭和20年9月12日付の 『木戸幸一日記』 には、重光葵外相が戦犯裁判( 東京裁判 )が開かれるという情報を得て、東久邇稔彦首相が、自分たちの手でその裁判をやりましょう、と陛下に奏上した時、陛下は、
 「日本人が日本人を裁くのは情において忍びない」
 と述べられたことが記されている。
 《 首相宮御参内、戦争犯罪人の処罰を我国に於て実行することを聯合国に申入るゝことに閣議に於て決定したる由にて、其旨奏上せられたるに、御上は敵側の所謂戦争犯罪人、殊に所謂責任者は何れ嘗ては只管忠誠を尽したる人々なるに、之を天皇の名に於て所断するは不忍ところなる故、再考の余地はなきやとの御尋ねあり 》
 また同年12月10日付の同日記には、木戸のことを陛下が、
 《 米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり 》
 と語られていたことも明らかになっている。




 昭和天皇は、A級戦犯となった東条英根元首相に対しても、こんな思いを口にされている。
 《 元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝らなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた 》( 『昭和天皇独白録』 )
 《 東条は民論を重んずべきことを口にせり。 しかるに迫水のような考えがありとすると、その原因は、東条が余り各省大臣を兼任して、自分の意思通り事が運び兼ね、軍務局や憲兵が、東条の名に於て勝手なことをしたのではないか。 東条はそんな人間とは思わぬ。 彼程朕の意見を直ちに実行に移したものはない 》( 『側近日誌』 木下道雄 )
 すべての責任をかぶって死んでいった東条に対して、天皇はこれほど温かい目を向けておられたのである。
 東条の孫にあたる東條由布子さんもいう。
 「昭和天皇さまから東条はいろいろなお気遣いを賜っておりました。 昭和23年12月23日に7人が処刑されて以来、毎年、祥月命日には北白川官家から陛下のお使いの御方が見えられ、御下賜の御品を頂戴し、また“東条の家族は今どうしておるだろうか?”というお言葉まで頂戴しておりました。 祖母からその話を聞きました時は、感動で胸が一杯になったことを覚えております。 ですから、陛下が“富田メモ”にあるような事を言われる御方とはとても思えないのです」
 メモにあるような粗い表現で、A級戦犯の靖国合祀に不快感を示されるだろうか、という素朴な疑問が生まれるのは当然なのである。
 「そもそも昭和天皇が“A級( 戦犯 )”という言葉を遣われたとは考え難い」
 とは、所功・京都産業大学教授( 日本法制史 )だ。
 「他の確かな資料を見ても、昭和天皇は戦勝国の一方的な判決を容認しておられないから“A級戦犯”という括り方をされるはずがないのです。 それを富田さんが頭の中で“A級戦犯のことだな”と判断してメモしたのかと思われます。 しかし、“A級( 戦犯 )”という認識をお持ちでない昭和天皇のお気持ちと、東京裁判の判決に基づく“A級戦犯”という言葉を遣う富田さんの理解力には、雲泥の差があると言わざるを得ません」
 さらに、メモに出てくる“参拝”という言葉も奇妙である。
 神社本庁関係者によると、
 「一般的には、陛下が神社に行かれることを“行幸”と言い、皇祖を祀る伊勢神宮に行く場合は“御親謁”という言い方をします。 靖国神社は英霊を祀っているところです“御祝謁”という言い方はしません。 あくまで“行幸”なのです。 また、陛下ご自身が謙譲語である。 “参拝”という言葉を遣うのはおかしいし、陛下の“行く”というお言葉を富田氏が“行幸”ではなく“参拝”と表現するのもおかしいですね」
 しかし、もしこれが昭和天皇ではなく、そういう表現をする“別の人物”との会話のメモだったとしたらどうだろうか。
 そこで浮上してくる人物こそ、冒頭に挙げた徳川義寛元侍従長なのである。




 徳川氏は、尾張徳川家の出身で、東京帝国大学文学部美学科を卒業し、ドイツ留学や帝室博物館( 現在の東京国立博物館 )研究員などを経て、昭和天皇の侍従となっている。
 眼光鋭く、取材に答えないことで宮内庁記者泣かせだった人物である。
 その人物が生前、唯一、生の言葉として残したのが 『侍従長の遺言 昭和天皇との50年』 である。
 この本の中で、徳川氏は靖国神社とA級戦犯合祀について、こう述べている。
 《 靖国神社の合祀者名簿は、いつもは10月に神社が出して来たものを陛下のお手元に上げることになっていたんですが、昭和53( 1978 )年は遅れて11月に出して来た。 「A級戦犯の14人を合祀した」 と言う。
私は 「一般にもわかって問題になるのではないか」 と文句を言ったが、先方は 「遺族にしか知らせない」 「外には公にしませんから」 と言っていた。 やはりなにかやましいところがあったのでしょう 》

 徳川氏は、A級戦犯合祀に 「文句を言った」 のである。 彼が明快に合祀反対派であったことがわかる。 さらに、
 《 A級戦犯はその10年くらい前に厚生省から 「戦争による公務死亡者」 として名前が靖国神社に届き、神社では昭和45年6月30日の総代会で合祀する方針を一応決めたのですが、 「合祀の時期は宮司に任せる」 ということで、宮司の筑波藤麿さんがずっと延ばしてきていたのです。 ところが宮司が筑波さんから松平永芳さんに代わって、間もなく実施に踏み切られることになった。 筑波さんは山階宮の系統で旧皇族の方でしたが、松平さんは元軍人で、自衛隊にもいた人でしたね 》
 富田メモと同様、筑波宮司を評価し、そのあとの松平宮司に徳川氏は批判的なのである。 そして、その言葉は、“松岡洋右への批判”に続いている。
 《 私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです。 ( 略 )靖国神社には、軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。 しかし松岡さんはおかしい。 松岡さんは病院で亡くなったんですから 》
 《 靖国神社は元来、国を安らかにするつもりで奮戦して亡くなった人を祀るはずなのであって、国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。 筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ 》
 つまり、徳川氏の“生の声”は、富田メモの内容にそっくりなのである
 これほど徳川氏がA級戦犯や軍人に批判的だったのには、それなりに理由がある。
 天皇の終戦詔勅を録音した 「玉音盤」 の存在を察知した近衛兵がこれを奪取しようと皇居になだれ込んできた時、若かりし徳川氏は、顔が腫れ上がるほど殴られ、玉音盤の在り処を明かすよう迫られている。
 しかし、徳川氏はそれでも口を割らなかった。 昭和63年4月12日に侍従長を退任する際の記者会見で、徳川氏はこう語っている。
 「10年ぐらい経ってから、私を殴った近衛兵が茶釜を持って謝りに来たことがありました。 しかし、まだその茶釜は使っていません ……」
 徳川氏の軍部に対する厳しい思いが窺える話である。
 前出の長男、義眞氏がいう。
 「その茶釜は今でも家にありますよ。 今も使っていませんが ……。 たしかに父は、軍人が嫌いでした。 特に第二次大戦の頃は軍人が威張ってましたから。 祖父は軍人だったのですがね。 祖父の時代の軍人と大戦の頃の軍人は違っていたのかもしれません ……」
 徳川氏のA級戦犯、あるいは軍人に対する思いが、昭和天皇と異なっていたのは間違いない。
 「昭和天皇は、軍人のことを“股肱の臣”と言って、ことのほか親しく感じておられました。 それは折に触れてさまざまな文献にも出ています。 昭和天皇ご自身が昭和20年までは大元帥で軍人であられたのですから、当然ですが ……」 ( 中西輝政・京都大学教授 )
 富田メモの発言主が天皇ではなく、徳川氏であれば、何の矛盾もないのである
 ほかにも、徳川氏であれば合点がいく点がある。
 「松平宮司の父親は宮内府の長でしたから、侍従職にあった徳川さんは、父親の存在をよく知っていた。 ですから、親の心子知らずという表現は理解できます。 “筑波がよくやった”という言い方も、筑波官司は旧皇族でしたから徳川さんはよく知っていたと思いますので、これもわかります」 ( 元宮内庁職員 )
 さて問題は、このメモが書かれたとされる昭和63年4月28日である。
 当時の宮内庁記者によると、
 「8ヵ月後に崩御される陛下にとって、昭和63年4月29日は、最後の誕生日となりました。 その4日前の4月25日に陛下は記者会見され、予定されていた時間のほぼ半分の15分くらいで会見を切り上げています。 前年に手術をされ、この時もすでに体調が相当お悪かったのです。 天皇誕生日に会見記事を出す予定だった各社は、陛下の真意や、お言葉の背景について、富田長宮ら幹部にブリーフィングしてもらわなければなりませんでした」
 陛下のすべてを知る徳川氏は、この直前の4月13日に半世紀以上務めた侍従の職を退き、宮内庁の侍従職参与に新たに就任した。
 「会見翌日の4月26日火曜日に侍従職参与となったのです。 そして、1週間のうち、火曜と木曜に出勤することになった。 口が堅いことで有名な方でしたので、ついたあだ名が火・木をもじって“寡黙の人”そして、参与になって初めての木曜日が、問題の4月28日でした」 ( 同 )
 翌日の朝刊用に天皇の会見記事を入稿しなければならない記者たちのために、富田氏が陛下にお会いし、改めて伺った話を書き留めたのが、問題のメモだとされている。 が、富田氏が体調の優れない天皇ではなく、その代わりに天皇のお側に50年余にわたって仕えた徳川氏の意見を聞いていたとしたらどうだろうか。
 「陛下の会見の前後に長官と侍従長が話をすることは当然あります。 お互い連絡を密にする必要がありますから。 富田氏が昭和52年に宮内庁次長に就任してから、二人は10年以上の付き合い。 すり合わせも心得ていたはずです」 ( 前出の宮内庁元職員 )
 つまり、メモにある発言をしたのが陛下ではなく、徳川氏であってもおかしくはないのだ。




 八木秀次・高崎経済大学教授がいう。
 「はっきり言って、このメモだけでは、富田氏が話した相手が昭和天皇とも徳川侍従長とも、どちらともとれます。 しかし、昭和天皇のご発言とした場合には言葉遣いに違和感が残るのも事実です。 親の心子知らず、などと非常に強い言い方は天皇にそぐわず、むしろ松平が徳川家の家来みたいなものだったと考えると、徳川侍従長の方がそういう言い方をしてもおかしくありません」  客観的な資料を積み上げれば積み上げるほど、メモが陛下のお言葉か、それとも徳川氏の発言なのか、判断がつきかねてくるのである。
 贔屓の力士の名前さえ出すことのなかった昭和天皇 それほど気を遣われる陛下が、メモにあるような直截な表現で、その心中を本当に語られたのだろうか。
 さて、日経新聞はこれが徳川氏の発言ではなく、昭和天皇のお言葉であることをどう検証したのか。
 日経新聞社長室は、
 「富田メモは今年5月に入手したものです。 日記が10冊と手帳が20数冊です。 すべてに目を通して点検し、歴史家などの意見も聞いて、検証を加えた上で報道しました。 報道した発言が昭和天皇以外の方のものであることはあり得ません」
 と答える。 が、その具体的な検証方法を明らかにするよう求めると、
 「詳細については申し上げられません。 取材の舞台裏をこと細かに説明するということはしておりません。 今後、われわれが必要と判断すれば紙面で明らかにしていきます」
 と、これを拒否するのである。 国民すべてが共有するべき歴史的な資料に対して、この理不尽な態度は信じ難い。
 日経に依頼され、メモを見た御厨貴・東京大学先端科学技術研究センター教授がいう。
 「私は、公開されたあの部分のメモしか見ていません。 徳川さんの発言ではないか、という人がいることも承知していますが、それも憶測の上に憶測を重ねるだけです。 本来、全部出して検証するのが歴史学ですが、それを日経はやる気がありませんね。 少なくとも私はこの( 天皇のものという )メモを本物だと思っています」
 当の富田氏の長男・広士氏( 56 )はこう語る。
 「私にはわかりませんが、報道を見る限り、父の日記や手帳には、歴史的な価値があると言われています。 もしそうであるなら、全部を公開するのは難しいにしても、信頼できるお立場の方に精査していただき、どこの部分を公開し、どこが駄目なのか決めていただいて、その上で公開すればいいのでは、と思っています」
 中西輝政・京都大学教授( 前出 )がいう。
  「一部の歴史家がお墨付きを与えていますが、検証手続きについて、日経新聞は、今に至るも一切報道していません。 このメモが天皇のものであるとする信憑性については、他の資料や歴史的事実とあまりに異なっており、大きな疑義が残っているのは事実です。 このメモは報道のタイミングからいっても政治利用されているこどは明らかです。 つまり 政治性の強い このメモの検証過程を明らかにしない なら、日経新聞の単なる大誤報というより、意図的誤報 という可能性さえ出てくる のではないでしょうか」
 日経の“スクープ”から2週間。 富田メモの波紋は、時間を経るごとに、ますます広がるばかりなのである。






 

 昭和天皇が 「A級戦犯」 の靖国合祀に不快感を示したといわれる富田メモで朝日新聞が見えすいた政治利用を行っている。
 どうみてもその信憑性は俯に落ちないことだらけなのにいち早く天皇のお言葉をメモしたものであると断定し、 「昭和天皇の重い言葉」 ( 7月21日 )だとして世論調査まで行って 「国民は次期首相の靖国参拝に反対」 であると報じているのである。 皇室を軽侮してきた朝日新聞が最後にすがったのが天皇の大御心だというのは滑稽を通り越して悲劇的 だが、これは見方を変えれば朝日新聞の断末魔といえなくもない。
 朝日新聞は靖国参拝反対をテコに媚中政権擁立を仕掛けていた が、朝日新聞や中国が期待していた福田康夫氏は自民党総裁選への立候補を断念し、小泉首相の後継には安倍晋三官房長官の就任がほぼ確実となったからである。
 靖国参拝反対で政局を転換するという壮大な目論見が失敗に終わり、見境なく飛びついたのが天皇の政治利用であった





[ 昭和天皇と富田宮内庁長官 ]
  「富田メモ」 報道を見たときの最初の印象は、 「こんなに信憑性のないものに、腹の減った魚が餌に食いつくみたいに食いついて、馬鹿らしいな」 ということでした。 日本人は疑う事を知らない人種なんでしょうか。
 疑わしいと考える理由として、まず 「白取」 という字の間違い が指摘できます。 当時の感覚で言えば、三国同盟を結んだドイツ、イタリア大使の名前は小・中学生でも知っていた。 新聞紙面にもよく出ていましたから。 ましてや 宮内庁長官ともあろう人物が 「白鳥」 を 「白取」 と書き違えるなどということはちょっと考えづらい
 メモを書かれたご本人がすでに亡くなっているので、真相を聞くことはできません。 発言にも外出着と普段着があって、メモは普段着ですし、メモをとる人の主観や言葉の選択もある。 陛下( 昭和天皇 )の発言を忠実に再現したとは限らないということも言えます。
 次に、このメモはわざわざ手帳に貼り付けてある。 これも不自然です。 後で書いたものを手帳に貼り付けた ……




富田メモの暴露は権力闘争と政治陰謀の結果。日本民族は神髄を究め冷静に対応することが肝要
(注)富田メモ:日本経済新聞が2006年7月20日、富田朝彦氏( 元宮内庁長官 )の遺品( 1988年4月28日付けの手帳 )に 「貼り付けてあったメモ」 として大々的に公表したものです。 靖国神社参拝に関する昭和天皇のお気持ち( A級戦犯に不快感 )を書きしるした( ? )とされています。
日経新聞には 「富田メモ」 暴露の1週間前、報道機関としての在り方を疑わざるを得ない“異様な動き”がある。
それは、4月13日に同社社長の杉田亮毅氏が北京を訪れ、唐家■[ 王+施 ]国務委員( 田中真紀子元外相に 「靖国参拝はやめなさいと“厳命”しました」 と発言したあの人物 )に会いながら、その件について一行も報じなかったことだ。
唐氏は対日政策立案の司令塔であり、日中関係について、中国側の最重要人物のひとりである。 そのような人物に新聞社の社長が会う場合、社をあげて準備するのが通常のケースだ。 会見は一面トップを飾り、質疑応答は詳しく報じられるのが通例だ。 しかし、日経は文字どおり一行も報じなかった。 メディアとしてはおよそ考えられないことである。
対日政策の構築で極めて重要な立場を占める唐氏に、杉田社長が会って一行も報じないのは、外に漏れてはならない内容が両者間で語り合われた ととられても仕方がないだろう。 そして 日経が富田メモを報じたのは、唐氏らが何としても阻止したい小泉首相の8月15日参拝の約ひと月前の7月20日だ。 偶然にしては余りにも出来すぎたタイミング ではないか。
本来ならば○秘のままで公開すべきではない、且つ信憑性に欠ける 「富田メモ」 を、この時機にあえて暴露( 公開 )したことは、根底に日本の将来を左右する( 転覆させる ) 「権力闘争と政治陰謀」 が渦巻いていると申せます。
昭和天皇が、仮に 「靖国神社とA級戦犯」 に関して、私的な感情( お気持ち )をお持ちであったと仮定しても、その心情( 心中 )を絶対に公表する( させる )つもりは無かったと拝察しております。 従って、かかる 「富田メモ」 を遺品の中に放置して置くことは、天皇をお守りすべき側近の態度・行動として、極めて 「不忠」 と言わざるを得ません。
「富田メモ」 の保存・管理が可能であった人間は、富田朝彦氏の遺族か、遺族等から引き継いだ狭い範囲の関係者に限られています。 経済的な欲( 金銭等の対価 )或は、陰謀・謀略・圧力によって、メディア( 日経 )の手に渡ったと考えられます。
「富田メモ」 の信憑性には、疑いがあります。
1.紙質が異なっている点からみても、1988年4月28日以降に、何らかの意図をもって、付加的に貼り付けられたものと考えるべきです。
2.筆跡が富田朝彦氏のものと言われていますが、後日の別紙による添付であれば、筆跡を偽装( 偽造 )することが十分に可能です。
3.昭和天皇は、贔屓の相撲取り名でさえ、ご発言がありませんでした。 政治に関連する個人名を挙げられることは、異例中の異例です。 臣下( 側近 )が、天皇のお気持ちを推測してメモしたか、宮内庁( 侍従長? )や政府高官の意向を帯びて、追加のメモを作成( 偽装 )し、手帳に添付した、とする方が自然であります。
媚中( 北京共産党政権への屈服者 )・親朝鮮半島の 「売国奴」 連中が、日本の国会議員・政治家・経済財界人の間に蔓延しています。 また、米国とその背後の 「闇の勢力」 は、 「武闘派」 ( 軍事優先グループ・ネオコン・ブッシュ大統領・国防総省・共和党の多数派 )と 「金融派」 ( 国際金融資本主義グループ・国務省・民主党の多数派 )とが、アジア利権を巡って主導権争いを続けています。
前項グループの一部に加えて、政界の長老クラス( 中曽根・河野? )が、陰で糸を引いているという情報も伝わって来ております。
いずれにしても、小泉純一郎氏の後の政権( 総理大臣 )への影響力を、前もって確立しようとして、 「富田メモ」 の暴露を画策・断行したものと推測することができます。 換言すれば、安倍晋三氏のアジア外交路線に対して、事前のくさびを打ち込む意図とも申せます。
日本民族は、国の内外の権力闘争と政治陰謀の結果として、提供( 暴露 )された 「富田メモ」 を信用してはなりません。 日本を分裂・解体・転覆・没落させようとする悪意の謀略に対しては、冷静且つ毅然と対処することが非常に重要であります。






 
 


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